photo taken by Tomo Yamanaka Manhattan, NY '92

第一章 らばうる航空隊

俺は昭和四十六年六月二十四日に神戸市で生まれた。三つ年上の姉、弓子と二つ年下の弟、直義がいる。父、勝義は医者をやっている。 山中家は江戸時代より代々医者と学者によって構成されている。 その因果か、長男である俺は幼い頃から、格別厳しい教育を受けて育った。父は非常に厳格で、儒教、武士道などを重んじる人であった。また第二次世界大戦から半世紀が過ぎた今日においても父は国粋主義者であり、いまだに陸軍記念日、海軍記念日を病院の休業日としている。いわゆる右翼と呼ばれる人なのだろう。俺はチビスケの頃、よくこの右翼パパと風呂に入った。そして湯船につかりながら「ラバウル航空隊」、「同期の桜」などの軍歌を父から教わり、意味も分からず歌ったたりしていたのを覚えいる。

父は技術面では評判の良い医者であったようだが、家庭内では非常に酒癖が悪く、暴力的であった。又、父はその思想に基づき、教育は圧力によって成り立つと考えていたようである。俺は勉強が得意な方ではなかった。しかしクラスで落ちこぼれても全く気にならない楽天的なところがあり、この事は父を随分苛立たせたようだった。父は先祖が士族であることを随分と誇りにしていたので、しきりに俺のことを「山中家の恥」などと言って罵ったが、俺にはなぜそうなのか分からなかった。教育熱心な父は何とか俺の成績を上げるために随分金をつぎ込んでくれた。俺は小学校の六年間で、通算5つの塾に通い、8人の家庭教師の世話になり、数え切れないほどの教材を与えられた。しかし父の思い入れとは裏腹に、俺の成績は向上することはなかった。そんな俺に父は憤り、良くビンタを喰らわしたりした。酒に酔った時などはもっと手に負えなかった。俺の将来を思っての仕打ちなのだろうが、それだけではないものを感じさせる憤怒がそこにあるのを俺は感ぜずにはいられなかった。てな感じで俺の幼少年期にはあまり楽しかった記憶が残っていない。俺は父の大きな平手がいつ飛んでくるかわからない恐怖におびえながら暮らしていた。辛くなって何度も家出を試みた。と言っても小学生の家出なんて範囲が知れていて、近くの公園に逃げ込むのが精一杯であった。そして夜が更けてくるとお決まりのように母が半べそを掻きながら俺を迎えに来るのだった。


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