photo taken by Tomo Yamanaka Manhattan, NY '92

第五章 ぺるそな・のんぐらーた

そんな緊迫した空気の中、俺は高校受験を迎えた。この受験も全くやる気はなかった。いくら不真面目な俺でも公立の高校くらいは入れるだろうと思っていたら、担任の教師から冷ややかに無理だと言われた。そして「ここなら大丈夫だろう」と言われたある男子校を受験してぎりぎり合格した。しかし嬉しくもなんともなかった。「大丈夫」だから受験したに過ぎず、その他にこの学校を選ぶべき理由は無かった。全く無気力な入学式だった。実際、脂ぎった野郎ばかりの男子校に魅力など感じるはずもなかった。こうして私は高校生となったのだが、そんな新学期のある朝、うちの近所である女子生徒が飛び降り自殺をした。受験失敗を苦にしてだと言う。

俺は毎日憤っていた。父に対して、そして日本の教育制度に対して怒り猛っていた。高校受験失敗を苦に自殺する者は毎年何人くらいいるだろう。大学受験も入れてこれまでの犠牲者全てを数えたら、数百人は下らないだろう。自殺していった者達だけが犠牲者ではない。この制度はあまりにも多くの人間の精神を蝕み、生きた屍を排出しすぎている。ではなぜ、日本と言う国はこの惨いシステムを未だに改めようとしないのだろうか。改められては困る人々がいるからなのだろうか。俺はバカなりにも、この謎の解明を試みたくなった。そして色々な本を読んでいると何と無く分かってきた。よく考えてみると、日本列島には全くと言って良いほど、天然資源がない。そんな国がどうやって自らを養って行けるというのか。それは貿易以外に手段はないはずである。とすると、国家にとって最も歓迎されるタイプの人間はごく限られてくる。それは具体的にどのようなタイプの人間を指すのだろうか。とりあえず良く働くタイプだろう。しかも不平不満をあまり言わない人。お上にはあくまでも従順、それにあまり自分の意見を持たぬのも都合がいい。日本国家はそんなタイプの人間を欲しているのであるから、そのような人間を創り出すことが文部省の任務となっていて当然ではないか。共産主義国においても資本主義国においても、教育機関とはその国の必要に応じた人間の形をした鋳型を持つロボット工場だと言えるだろう。日本でも6、3、3と12年間の学校教育は殆どのタイプの人間をペルソナ・グラータ(好ましき人)に統合してしまうのに充分な長さと言えよう。しかしその鋳型に収まりきれず、晴れて出荷日を迎える事の許されない「不良品」が今日も続々と排出されて行くのだ。しかし、そのような犠牲は伴うが、日本人の国民性の一つでもある集団性と優れた工場管理が手伝って、出荷されてくる「製品」の質は悪くはない。過労死などという現象が起きるほど、良くできている。それにしても誰がこのシステムの恩恵によって肥え太っているのだろう。その利潤を国益と言う御題目にすり替え、その国益の為に幾らかの命が踏みにじられ消えて行くこともいたしかたがないと平気で豪語している人間がどこかにいる。しかし俺にとって誰が犯人なのかという探求などどうでも良いことだった。俺は俺の目の前に現実として横たわる巨大な動かしがたいシステムに対して自らの人生をどの様に対応させて行くべきなのか考えた。このままドン・キ・ホーテを演じ続けている自分に未来は見えなかった。「逃げよう」と思った。戦う相手が大きすぎると思った。しかしどこへ逃げればよいのか。そんな戸惑う自分に映画館のネオンサインは冷ややかだった。


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