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母、園子は戦時中軍医だった祖父(巻野正男)の駐屯先、満州にいた。敗戦と同時に祖父、祖母(巻野町子)、そして母は大陸から本国
へ引き上げねばならなかった。しかしその道中、一行は南下してきたロシア軍に拿捕されてしまった。そして祖父はそのままシベリヤ送りとなってしまった。幸い祖母と赤ん坊の母は釈放され、命辛々帰国することが出来た。すると不思議なことに捕らえられたはずの祖父が先に大阪に戻っていたのである。祖父は軍医であったため、ロシア兵にも随分丁重に扱われたらしい。そしてその緩い監視を縫って、もう一人の軍医と共にシベリヤへの道中を脱出してきたのだった。祖母も母も、帰路に随分親切な中国人達の世話になって命を繋いだらしいが、祖父も又、中国人達から食料は勿論、中国人になりすますために支那服を貰ったりと随分世話になったようである。多くの中国人のお陰で、母は残留孤児にならず生きて日本に戻ることが出来たのだ。祖父は赤ヒゲのような男で、町医者として多くの人々から慕われていた。戦後の苦しい次期には多くの方々に無料で診察してあげ、治療を施してあげた。祖父は二代目で、曾祖父も同じく温厚な町医者であった。曾祖父はその人徳の故に、昭和天皇から勲四等なんたらとかいう勲章まで貰っている。母はこの二人を見て育ち、医者とはかくなる者という理想を抱いていたのだろう。典型的な箱入り娘である母は、両親の薦めで見合ってみた医大生とさっさと結婚してしまった。新婚当時、父は随分と妻思いの優しい亭主であったようであるが、父側の祖父の死と同時に祖母が同居するようになってから何かが変わってきた。父は祖母にへつらうようになり、母は孤立する形に変わってきた。初めは遠慮気味であった祖母の態度も徐々に横柄になり、母に辛辣な態度を取るようになった。ありがちな姑の嫁いびりが始まったのだ。
先に述べたように、母は睡眠薬を飲んで自殺を図ったことがある。幸い一命を取り留めたが、その後も生気のない日々をただ虚しく過ごしていた。そんなある日、中学生であった姉が一枚のビラに惹かれて英会話教室に通うようになった。その英会話教室は日本同盟基督教団武庫之荘めぐみ教会という小さな教会の礼拝堂で数人のアメリカ人宣教師の指導のもと開かれていた。姉も幼い頃より随分と辛い思いをしてきたと思う。俺は男であるが故にストレスがピークに達すると大暴れしてそれなりに鬱憤を消化する事が出来たが、姉の場合は一切の憤りを未消化のまま、腹の中で腐らせてゆく他無かった。姉の心は病んでいた。そんな姉の心は宣教師達の柔和な言動、生徒一人一人に対する誠実な思い入れに敏感に反応した。そして宣教師達は姉の良き友となり、病んだ姉の心に慰めを与えてくれるようになった。そして彼らは姉に聖書を読むことを奨めた。これが我が家に初めて聖書が到来したいきさつである。
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