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俺は宣教師の好意と誠意に大変感謝していたが、一つだけ閉口させられることがあった。それは英会話レッスンの後にいつも「聖書の話しをしてもいいですか」と持ちかけてくることだった。俺を回心させようとする熱意がありありと伝わってきた。俺はその熱意を感じれば感じるほど、かたくなになった。しかし何度目かのレッスンの後、あまりにしつこいので義理で承諾してしまった。実のところ、彼女が何を好きこのんで単身日本くんだりまで来て、この様な儲けにもならないような仕事を何十年もやっているのか聞いてみたい気もしていた。
何が起こったというのだろう。愛という言葉ほど俺にとって欺瞞に満ちた言葉はなかったはずだ。"Honesty...such a lonely
word"とBilly Joelが歌ったが、私にとっては "Love... such a lonely
word"だった。俺はその夜またしても「神は愛なり」と宣教師から聞かされた。しかしその夜、俺は宣教師の口から語られる「神が愛たる所以」の説明を聞きながら、心の中で振り上げていた神への怒りの拳を納めざるを得ない衝動にかられた。宣教師は聖書を開き、約二千年前、イスラエルのエルサレムで起きた事件を説明した。ナザレのイエスと呼ばれる男が有罪判決を下されることなく十字架の上で殺されたと言う。キリストが十字架で死んだという話は聞いたことがあった。その歴史的信憑性も特に疑う気持ちはなかった。学校の教科書にも載っているくらいなのだから本当なのだろう。しかし「なぜイエスが十字架で死んだのか」ということは当時の俺がそうであったように、今日においても多くの日本人がその真意を知らないでいるのではないだろうか。宣教師は聖書を紐解き、その「なぜ」に対する答えを俺に話し始めた。(つづく)
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