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俺も辛かったが、我が家で最も苦しんだのは母であったと思う。今でも父と結婚した母が哀れでならない。父はこの母によく手を上げた。そして同居していた父方の祖母がそれに拍車をかけて母をいじめた。この祖母と父は複雑な家庭環境にあったせいか、結婚後も非常に密接な絆で結ばれていた。そんな祖母にとって自分の最愛の息子の妻たる者の存在が、どうしても気に食わなかったのようである。耐えかねた母は子供三人を引き連れてよく大阪の実家に逃げ帰った。しかしいつも最後には子供の将来を案じて母の方が苦汁を舐め続けるという選択を強いられるのだった。しかし、そんな母の忍耐にも限界があり、父の浮気が発覚したとき、母は遂に神経衰弱となり、多量の睡眠薬を飲んで自殺を図った。確かではないが俺は当時、小学校二年生くらいであったと思う。いまだに謎となっていることなのだが母はその睡眠薬を父から受け取ったと言うのである。医者である父は致死量を知っていたはずであるが、一体全体、私の両親はどのような合意のもとそのような行動に走ったのだろうか。母は奇跡的にその一命を取り留めることができた。しかし母は自殺未遂の後、全く生気を失い、生きる屍のようであった。子供の俺には、事情がよく飲み込めず、ただ張りつめた空気の中で恐れ戸惑っていた。
比較的裕福な家庭で、典型的な教育パパと教育ママに育てられた俺は、お決まりコースに従って私立の小学校を受験をさせられた。だが、「お姉ちゃんと同じ学校がええ」と言い張って近所の公立の学校に入れてもらった。中学も関西学院大学付属中学という学校を受験させられた。しかし受験など、はなからやる気のない俺は、当然のように落第した。始めは他人事のようにその事実を受け止めていたが、だんだん腹が立ってきた。涙が出るほど怒りで一杯になってきた。落第したことよりも、両親に血が出るまで引っ叩かれて机に向かわされた日々や、夜遅くまで塾通いをして備えてきたことが全て無駄であったと知ったからである。子供であっても、幾らかの尊厳はある。しかしその僅かな尊厳が全く省みられず、無遠慮に踊らされてきた自分に気付いたとき、自分の存在の軽さは一体どうした事か?俺は何なのか?と考えるようになった。
そのような憤りを胸に俺は公立校の中学生となり複雑な思春期に突入した。すると突然、今までは見えなかった事々が見えるようになってきた。そして自分の意見というものを持つようになってきた。まず、自分の置かれている環境がどれだけ不健康なものであるかと気付き出した。そして、それに義憤を覚えるようになった。それに加えて父が十三年間、俺に教えてきた右翼思想が明らかに間違いであること、そればかりか父が誇りとする日本軍が大戦中にやってきたことは、恥ずべきことであっても、誇ることなど絶対あってはならない大犯罪であったことが分かってきた。こうして俺の中で目覚めた父への憤りはみるみる俺の胸中を支配していった。
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