photo taken by Tomo Yamanaka Manhattan, NY '92

第九章 アヘン

当時姉は聖書のことばを「乾き切ったスポンジに染み入る水のよう」と表現していたが、俺にはよく分からなかった。しかし姉は聖書と出会い、確かに変わり出した。姉の表情を特徴付けていた、えも言えぬ陰気さが消えつつあった。このことで最も喜んだのは母であった。母は仏教系の大学で学んだのだが、その頃、少し聖書を学んだことがあったらしく、近頃の多くの日本人のように無知蒙昧にキリスト教を毛嫌いすることはなかった。母はしばらくして姉と一緒に教会に通うようになった。又、母に従順な幼い弟も共に教会に通うようになった。

俺はそんな彼らをあざ笑うが如く見ていた。キリスト教であれ何であれ「宗教はアヘン」であると言ったカール・マルクスは正しいと思っていた。苦しいのは分かる、辛いのも分かる、でもそこで宗教に走るならば、それは自他共に敗北者であることを認めていることになるではないか、と彼らを卑下していた。事実、我が家にも時々出入りするようになっていた教会の人々は皆、魅力的と言うにはほど遠い、弱者集団のように見えて仕方がなかった。俺も弱者であり、負け犬なのだろうが、「宗教」の世話になるほど落ちぶれちゃいねえ!そんな生き恥をさらして生きて行くくらいなら、自分の命は自分で始末するなどと心の中で豪語していた。しかしその事とは別として、俺は絶対的主権者なる神の存在は疑っていなかった。この天体は無計画に偶発的に出来たなどと考えるほど俺は非科学的な人間ではなかった。葉っぱ一枚観察してみても、そこには驚くべき組織と秩序がある。ましてやこの天体に於ける秩序は驚異的としか言いようがない。もともと人間の知恵や力などあまり高く買っていなかったので、人の知恵によっては解明し得ない世界があることは謙虚に受け入れられた。車やコンピューターでさえ、誰かが作ったことは明らかなのだから、それらよりも幾数万倍も見事な組織と秩序を保っている葉っぱ一枚が、何者かによって目的に従って造られ、存在させられてる事は、俺にとっては自明の理であった。

「万物の真理」もしくは「創造者」なる方がどこかにおられるということは無意識の中で知っていた。しかしその方が聖書の神だとは信じていなかった。なぜなら聖書は「神は愛なり」などとふざけたことを言っているからである。神が愛なら、このザマは何だ!この世界は悲しみ苦しみで一杯じゃないか!そして俺が今抱えているこの苦しみは一体全体、どういうことなのか!?神の内でどの様な納得のいく説明が下されて、これらの苦しみ悲しみを放置しているというのか!俺にとって「神は愛なり」と言う聖書の言葉は実に紛らわしく、むしろ苛立たしく思えた。そんな俺は、当然教会には行かなかったし、聖書を母から手渡されてもそのまま母の目の前でゴミ箱に捨てたりした。


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